【たそがれる国家(1)】 人類史の曲がり角!? 私たちは今、どのような時代を生きているのか

人類史の曲がり角!? 私たちは今、どのような時代を生きているのか
【新連載】たそがれる国家(1)
内山 節 哲学者
現代ビジネス2016年10月30日

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50071


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はじめに

次第に国家が意味を失っていく、いま世界はそんな時代に入りはじめたのではないだろうか。

20世紀終盤にソ連が崩壊したとき、旧ソ連はいくつかの国に分解した。それが何を顕しているのかといえば、旧ソ連が国家としての意味を失っていたということである。だからそれは分解することになった。同じ時期に旧ユーゴスラビアやチェコスロバキアも分解している。それらの国もまた、国家としての意味を失っていた。

このときは社会主義の崩壊として語られていたが、もうひとつ見逃してはいけないことは、国家の虚無化がすすんでいた、それ以前の国家が存在意義を失っていたということである。国家は黄昏化がすすむときがある。

このときの動きは、これからの時代を先取りしていたのかもしれない。イギリスはこれからスコットランド、北アイルランド、ウエールズ、イングランドに分解していくかもしれない。ベルギーもふたつの国になる可能性を秘めているし、カタロニア地方はスペインから独立するかもしれない。そうなればバスクもまた独立をめざすことになるだろう。


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スコットランドの「独立」を訴える人びと。2014年〔PHOTO〕gettyimages

この地がイギリスであるメリットがスコットランドにとっては薄れてきたように、これからはいろいろなところで国家の虚無化が意識されていく。中国でも、少なくともチベットやウイグルでは独立が模索されつづけるだろう。

日本をみても、沖縄にとっては日本である利益よりも不利益の方が大きくなっている。日本であるがゆえに国策によって基地を押しつけられる。とすれば独立して基地を撤去し、跡地をこれからの沖縄のために使う方が有利だと感じられける時代がはじまるのかもしれない。

このような動きをへて、世界はどうなっていくのであろうか。

* * *

その前にもうひとつ、次のようなことも述べておかなければならない。それは独立という問題だけではなく、すべての人たちにとって国家の有効性が薄れてきていることである。

今日ではあらゆる国で格差が拡大しているといってもよい。しかも先進国ではどこの国でも増税や社会保障水準の引き下げが議論されている。国家は国民にある程度の安定した基盤を提供する機関ではなくなってきた。国民にとっては、国民である有効性が低下してきたのである。

さらに国家もまた、以前と比べれば政策の有効性が失われている。

たとえば現在、日本、アメリカ、EUなどは、かつて例がないほどの金融緩和を継続している。これほどの緩和をすれば、インフレ化するのが普通である。ところがどこの国でもインフレは起こっていない。

そのことは国や中央銀行が、金融のコントロール機能を喪失していることを意味している。そうであるのなら、インフレが発生したときにも国や中央銀行はインフレに対するコントロール機能をもちえない可能性が高い。

多くの人たちが期待しているほどには、国家はその役割を果たせなくなっているのである。とするとこのような意味でも、国家の黄昏化、虚無化がはじまっていることになる。

だがこのような変化が、制度的な国家を弱体化させるとはかぎらない。

強い国家/弱い国家

かつて1930年代にファシズムが台頭した。ドイツ、イタリア、スペイン、日本だけでなく、フランスでもファシズム政権が生まれる寸前までいっていた。

このファシズムが指向したのは「強い国家」である。国民をひとつの政治潮流の下に統合し、政治、社会、経済などのあらゆる分野で国民総動員体制がつくられていった。

しかしこのとき生まれたファシズム国家は、はたして「強い国家」だったのだろうか。


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ナチス・ドイツは「強い国家」だったか?〔PHOTO〕gettyimages

そうではなかった。「強い国家」があるとするなら、それは持続性のある国家のことであり、この視点からみればファシズムは持続性のない「弱い国家」を生みだしたにすぎなかった。

それは最近生まれたIS(イスラミック・ステイツ)が、彼らが主張したようにひとつの国家だとみなせば、制度的には批判を許さない「強い国家」をつくっていても、持続性のない「弱い国家」であるのと同じである。

はっきり言ってしまえば、日本もまた明治になって「弱い国家」をつくったといってもよい。そしてその弱さは日露戦争によって拡大され、昭和に入るとさらに高められていった。

日露戦争によって国民統合がすすみ、日本は「アジアの盟主」、「列強の一員」としての入り口を確立した。昭和に入ると、このかたちはますます高められていく。それは表面的には「強い国家」を成立させたかにみえた。だがその国家はたちまち崩壊していくことになる。持続性がなかったのである。

仮に敗戦という事態がなかったとしても、この国家は持続しなかったことだろう。明治以降の日本は、ひたすら「弱い国家」をつくることになってしまった。

このことに示されているように、根本的には「弱い国家」でありながら、表面的には「強い国家」が形成される。それは歴史上で繰り返し発生してきた。

国家が黄昏れていく、虚無化していくとは、国家が持続する意味を低下させていくということである。だからそのような時代には、地域の独立運動も起こってくるし、国民にとっての国家の有効性も失われてくる。さらに国家の政策的有効性も低下していく。

だがそのような時代には、表面的な「強い国家」を指向する動き、より強い国民統合をめざす動きも生まれ、この動きが勝利すれば持続性のないさらに「弱い国家」が形成されるのである。

かつての社会主義圏の国家もそのようなものであった。それは表面的には「強い国家」であったが、根本的には持続性のない「弱い国家」だったといってもよい。

さらに述べておけば、表面的な「強い国家」を指向する動きが強まってくる時代は、その奥で国家の黄昏化、虚無化が進行している時代だということである。

国家の意味が低下していくから、その「危機」を克服する方向として「強い国家」がめざされ、その動きがさらに「弱い国家」を生みだしていってしまう。そしてそれは、最終的には、ひとつの時代の国家の崩壊をもたらす。かつてのファシズムや社会主義国家がそうであったように。

トランプ現象の背景

なぜそのようなことが起こるのかといえば、意味を失っていく国家があるにもかかわらず人々が国家に依存しようとすれば、その動きは国家により強力なものを求めてしまうからである。

それは今日のアメリカ大統領選のトランプ現象をみてもよくわかる。なぜトランプが一定の支持を集めつづけるのか。その根本的に理由は、国家としてのアメリカの虚無化にある。

ドルを基軸通貨とし、圧倒的な軍事力、経済力、政治力をもって世界に君臨したアメリカは過去のものになった。そしてそれは国内的には格差と新しい貧困や疎外感をもたらし、国家の黄昏化、虚無化を推し進めることになった。

一部の国民には、この虚無化を発生させてしまった「犯罪人」として、これまでの「支配階級」が映っている。これまでの政治家、マスコミ、社会の既成のリーダーたち、そういった人たちがアメリカの黄昏化を招き、クリントンはその一人としてみえている。だから彼女は、その資質もあるにせよ、嫌われた大統領候補なのである。

そしてその心情は、既存の国家を改革し、より「強い国家」を、「強い国家」の下での自分たちの地位の回復をもたらしてくれる大統領を求めることになる。


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〔PHOTO〕gettyimages

その役割をトランプが果たしてくれるとは信じられなくても、そこにしがみつくしかない人たちを大量に生みだすほどに、いまではアメリカという国家の黄昏化、虚無化がすすんでいると考えればよい。

だがそのような時代には、国家に依存しない自分たちの生きる世界を再創造しようという動きもでてくる。実際水面下では、日本でも、諸外国でも、その動きはさまざまなかたちでひろがっているのだが、そのことについては後に触れることにしよう。

近代世界の終わりの始まり

かつて、世界がグローバル化していけば国家の役割は低下するという意見があった。だがそれが幻想であることは、この間の歴史が証明している。

確かにこの数十年の間に、企業の国際化や人、物の国境を越えた移動、通信のボーダレス化などは飛躍的に拡大した。だがそのことによって政治家も企業人も、さらにはそれぞれの国の人々も国家を不要とするような行動原理を確立することはなかった。むしろグローバル化した世界のなかでの国家間競争、そこでの支配権をめぐる争いが激化しただけである。

中国経済のグローバル化が中国中心主義を低下させることはなかったように、あるいはアメリカがアメリカ中心主義を放棄することがなかったように、グローバル化はグローバル化した世界の下での「強い国家」をめざす動きをむしろ加速させた。

国家の役割は、グローバル化によっては低下しない。だがいま世界ではじまっているのは、国家の黄昏化であり、虚無化である。その意味で根本的な弱体化がはじまっているといってもよい。内部から腐っていくように、国家の意味が低下していく。

とすると、それはなぜ起きたのだろうか。

そういう変化をとおして世界や社会はどのように変わっていくのだろうか。

そしてこれからも国家の虚無化が進行していくとするなら、それは近代世界そのものを終焉させていくことになるのではないだろうか。なぜなら近代世界とは、人々が国家の下に結集することによってつくられた世界だからである。その国家が虚無化してしまえば、近代的世界自体が土台を失うことになる。

そういう思いをもちながら、私はしばらくこのテーマを追いかけてみることにする。

(第2回「溶けていく近代社会の"建前"」はこちら


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かつて日本では、人がキツネにだまされたという話は日常のごくありふれたもののひとつだった。それが1965年を境にしてそういう話が発生しなくなった。いったいなぜ?

「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書) 内山節著(講談社 777円税込)


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講談社現代新書 内山節 講談社発行年月:2007年11月20日 予約締切日:2007年11月13日


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商品基本情報
発売日: 2007年11月20日
著者/編集: 内山節
出版社: 講談社
サイズ: 新書
ページ数: 178p
ISBNコード: 9784062879187

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
かつては、日本のキツネが暮らしている地域では、人がキツネにだまされたという話は日常のごくありふれたもののひとつだった。それも、そんなに昔の話ではない。キツネに悪さをされた。キツネに化かされた。そういった話は、いまから五十年くらい前の二十世紀半ばまでは、特にめずらしいものではなかった。…ところが一九六五年頃を境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が発生しなくなってしまうのである。一体どうして。本書の関心はここからはじまる。そのことをとおして、歴史学ではなく、歴史哲学とは何かを考えてみようというのが、本書の試みである。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 キツネと人
第2章 一九六五年の革命
第3章 キツネにだまされる能力
第4章 歴史と「みえない歴史」
第5章 歴史哲学とキツネの物語
第6章 人はなぜキツネにだまされなくなったのか

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
内山節(ウチヤマタカシ)
1950年東京生まれ。都立新宿高校卒。哲学者。群馬県上野村と東京を往復しながら暮らし、立教大学や東京大学などで教鞭をとる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



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